あなたが死を正しく認識しない限り、生涯何も残せないまま確実に死ぬ

死ぬかもしれない

あなたは、「明日死ぬかもしれない」という現実を、いつの間にか他人事のように扱ってしまってはいないだろうか。

 

大事故や、震災、暗殺といったネガティブなニュースを見たその瞬間、明日はわが身と寒気がするのだが、数時間経つといつもと同じようにテレビを見たり、YouTubeを見てしまってはいないか。もちろん、そういった人は実際に多いと思うし、かくいう私もその口である。だが、死に対して焦らない限り「生涯何も残せない」と今私は強く感じている。いろいろ私なりに考えたことをあなたにお伝えさせて貰う。何かのきっかけになれば幸いだ。

 

saku7142.hateblo.jp私と同世代の人のエントリがたまたま目に入った。考えが巡った。

死を意識しない人間は、なんとなく生きてしまった先「何者にもなれない」きっと、なれない

 

人は、いつから「死なない」と錯覚しているのだろうか。なぜ時間を無駄にしてしまうだろうか。なんとなく生きた結果、気づいた先には遠い未来に流されて、取り返しのつかない「今」が来てしまう。もしかするとこの記事を見ているあなたも、まさにその状況下なのでは、と勝手に想像している。

 

遠かったはずの未来に終着した時「今になって後悔」するのは一体どうしてなのだろうか。

 

私は最近このように考えている。「死を正しく認識できない人は、抽象の世界に入り込んでしまっているのではないか?」と。勝手な解釈で申し訳ないが、私も含め「抽象の世界」で生きている限りは、「大衆」であることからいつまでたっても抜けられないのであろう。言い換えると「何も考えないで生きている」以上には「何者にもなれないまま」死んでしまうのだろう。

 

いまいちイメージできないと思うので図を用意した。例えば、以下の図のように世界を具体で認識しない限りには、抽象の波に飲み込まれてしまい、まるで低解像の写真の中で雑踏に揉まれ生きているだけの生涯になるのではないか。

 

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必死に生きている人と抽象の世界で生きている人の世界の見え方を比べると、密度が全然違う。

 

自身に問うてほしい「自分は自分として明確に存在しているのか?」

 

「何者にもなろうとしていない人」からするとどうでも良い話だとは一定数思うし、私もイキナリこんな訳のわからん記事を見るとさっと閉じたくなるのはわかる。しかし、この世に生を受けた限りには、自分が自分として存在したいという欲求は少なからず誰しもが持っているはずなのではないだろうか? どうすれば自分という存在を確立できるのか、唯一無二の存在であることができるのか。例えば、あなたが欠席しても他のキャストがいると言われてしまうような、その他大勢、AくんBくんにならないためにはどうすればいいのか?

 

「死」を正しく認識すると「何となく生きること」から解放される?

saku7142.hateblo.jp

 

2017年2月27日、私と同世代で心臓の病気と闘っている「さくら」さんのエントリを見た。この方のエントリを見て、いったいどれくらい多くの人の心が動いただろう。

 

「時間を無駄にしてはいけない」「精一杯”生きねば”」「今を生きよう」

 

私もそう思った。僭越かもしれないが強く同情し、強く共感した。しかしそうは思いながらも、数日後になるとそういった気持ちは少なからず薄れていくだろうし、来月あたりなると、またいつものように"YouTubeで、なんとな〜く動画でも見て時間を浪費する”のではないかと今から恐れている。結局、当人の立場に置かれないと、本心から「夢を追えることが当たり前ではない」という気持ちを持てないのだろうか。どうすれば、当事者のように生きる炎を強く燃やすことができるのか。

 

ロウソクの炎を強く燃やし続けるには、どうすればいいのか?

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 突然だが、質問をさせてもらおう。

 

2011年の震災から約6年の月日が経ったが、当時に比べてあなたの気持ちはどう変化しただろうか?

 

二度とこの悲劇は起こさない。

明日はわが身。

日本中が1つとなった。絆。

 

こういったことを全く記憶に残っていない人は流石に少ないはずだ。しかし、あの時の感情の炎を、今も絶やさす燃やし続けている人は一体どれくらい存在しているのだろうか。 時とともに人の考え方、死生感は変遷していく。当時のままで、全くそのままの感情を残せている人は多くはないだろう。なぜなら人は、時と共に移り行く生き物であり、抽象の波にすぐに飲み込まれてしまうからだ。

 

形あるものはいつか崩れゆく上、いつまでたっても同じものなど存在しない。宗教を説きたいわけではないが、釈氏は「死」についてこう指摘している。

 

『死』について苦悩するのは、人間にしかできない特権です。確たる信念を持っても人の生死は人間の手でコントロールできない。生死に関する考え方は情況によって変化するものです

 

死ぬコトに対する意識というのは、強烈な原体験が起きなければならない。またその状況下に置かれなければ、強く意識することはできないのであろう。と同時に「さくら」さんが『何者か』になることを確信した。いや、すでに『何者か』であるだろう。逆に言うと、やはり私達は何者にもなれないのだろうか。

 

結局のところ、死を正しく認識するにはその時その時の当人の情況によって異なるため、ろうそくの炎の燃え具合も人のよって異なるということなのか。強くロウソクの炎を燃やし続けることは不可能なのだろうか。あなたもいろいろな角度で考えてみて欲しい、ろうそくの炎を操作する方法などないのか? この解は人によって異なるだろうし、異論があるかもしれないが、これから「1つだけ」私なりのろうそくの火を灯す方法をお伝えする。

 

「何者か」になるには必死に問いを投げればいい

 

結論を先に言うと、必死に生きるためには、毎日問いを自分に投げ続ければいい。 名前は忘れたが、ある著名人がこんなことを言っているのを思い出した。

 

人生は平均してたった20000日しかない、そう思った瞬間「自分はこのままでいいのか」と思い立って、今ではテレビに出てこうして話をしている。たった1つの自問自答だったが、それだけで地位や名誉を手に入れた

 

私は正直、人生があと20000日だと言われてもピンとこないし、明日で死ぬと宣告されても信じないだろう。この著名人の20000日の話は多くの人が参考になるようでならない虚無の話だと思う。

 

ただし、「自分はこのままでいいのか?」といった自問自答こそ核であって、私はそこに強い意味があることだと確信している。思い返せば、私も自分に問いを投げかけたことが1年前にあった。今現在、この問いは成功だったと痛感している。

 

大事なのは「問うこと」

 

私は現在、大学生の青二才だが、去年のあくる日突然、こういった問いを、ふと自分に投げかけた。「大学の学費を数百万円も払っているにも関わらず、無味乾燥な日々を過ごし続けていないか?このお金は何で払っているのか?なんのために大学に行ったのか?」この問いを自分に投げると同時に、学内で勉学することに意味・意義を感じなくなり、実際に手を動かすことの方が大事だと感じた。関西の中小企業へインターンへ単身で弟子入りし、学校で得られないものをそこで得た。

 

何が言いたかったのかというと、「問いを投げかける」ことが、ろうそくの炎を調節するため唯一の方法であるということだ。 疑問を持てば行動が変わる。行動が変われば人生が変わる。問いを投げることこそが、自分の人生を自分ごとに捉えて「必死」になれるはずだ。

 

私はそう思うのだが、あなたはどう思うだろうか?

 

何となく生きずに納得できる未来を

 

誤解して欲しくないのが、私は、何もあなたに「頑張れ」と言いたいわけではないし、自分にも「頑張れ」と強要してはいない。大切なのは、「何となく生きない」ことだ。「なんとなく生きない」ためには、自分に対する問いを大事にしていくことに他ならない。問いを投げれば、自然と考える機会は与えられる。

 

時代背景も合わせて付け加えると、多様性が求められる中、みんなと同じという理由だけで意思決定してはいけない。何となく、流れる川を流れてはいけない。流れながらも圧倒的な自我を持ち、鮮明に生きること。人は必ず死ぬことを改めて認識して、文字通り「必死」に生きることができれば、そこに自分しか得ることのできない何かがあるだろう。そしてそれは「さくら」さんが私たちに向けて書いた文章の意味・意義が深まることでもあると勝手ながら考えている。

 

最後に

 

価値ある情報でも、面白い情報でもなかったかもしれない。秀逸な増田にも到底及ばないだろうが、自戒も込めてここに記録しておいた。この記事をここまで読んで下さったあなたは、今何を感じ、これから人生をどう生きるのだろうか。非常に興味深い。「何も変わらない」という選択も、また酔狂ではある。

 

「問い」が多い文章で申し訳無かったが、これも一応、仕様だと言っておこう。ぜひご意見をお聞かせ願いたい。

 

自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。

哲学者エーリッヒ・フロム